「まちづくり」に感じた個人塾の親和性
「まちづくり」という言葉を聞いたとき、私は個人塾との不思議な親和性を感じました。しかし、自分の考えを上手く言語化することが出来ませんでした。
そこで「餅は餅屋」ということで、エルムさんに執筆を依頼したところ、非常に興味深い視点を提示していただきました。拝読して思わず「なるほど!」と膝を打つほど、腑に落ちる内容だったのです。
管子から感じる共通項
中国の古典『管子』の中に、次のような一節があります。
「一年先を思う者は、花を育てなさい。十年先を思う者は、木を育てなさい。百年先を思う者は、人を育てなさい」
私がこの言葉に出会ったのは、教員時代に参加した研修会でのことでした。
1年後には綺麗な花が咲き、10年後には木々が実りをもたらす。そして、100年先の未来を豊かにしたいのであれば、人を育てること。そうして育った人々が、さらに豊かな世界を創り出していく……。
この一節こそが「まちづくり」の理想であり、同時に「教育」の根本でもあるのだと痛感しました。
これをまちづくりに置き換えると、1年先の活気を求めてイベントを行うことは「花を植えること」だと言えます。祭りの間は賑わいますが、花はいずれ枯れてしまいます。
次に必要なのは、木を植えて林を作ること、すなわち「インフラの整備」です。ここで学習塾は、地域のインフラとしてまちづくりに関わることができます。
そして最後は「人」です。どれほど立派な「まち」があっても、そこに暮らす人がいて初めて機能します。その人を育てる営みこそが、教育なのです。
こう考えると、個人塾とまちづくりの親和性について、すとんと胸に落ちるものがありました。
個人塾だからこそ
もちろん、教育インフラといえば「学校」や「公民館」があるではないか、という意見もあるでしょう。確かにその通りです。 しかし、公教育や大手塾には真似できない、個人塾だからこそ果たせる「インフラとしての役割」が二つあると考えています。
継続した指導
一つは「継続した指導」です。学校は、良くも悪くも卒業と進学によって区切りがつきます。それは成長の節目ではありますが、一貫した見守りという点では限界があります。その点、就学前から高校卒業まで、長く継続して子どもたちの成長を伴走できる「個人塾」の存在は、地域にとって非常に大きいのではないでしょうか。
宿り木としての存在
二つめは「宿り木(帰る場所)」としての役割です。 学校や大手塾は、教育や仲間づくりの場を提供してくれますが、それはあくまで一過性のものです。卒業すれば同級生はいなくなり、お世話になった教職員も転勤や退職で去っていきます。思い出はあっても、そこは「かつての場所」になってしまいます。
対して個人塾は、地域に根差し、ずっとそこに在り続けます。そして何より、塾長がそこに居続けます。 場所として、そして「人」として、変わらずそこに在り続けること。
卒塾生たちが何かあったとき、あるいは何もなくても、ふらりと立ち寄れる場所。生徒だけでなく、保護者の皆様も等しく集える場所。そんな「変わらない場所」が地域にあることこそが、100年先の「まち」を支える真のインフラになるのだと信じています。
この個人塾という存在は、私一人で成り立つものではありません。通ってくれる子どもたち、支えてくださる保護者の皆様、そしてこの地域があって初めて「場所」として存在できます。
私が今治市個人塾協会を立ち上げた理由の1つもそこにあります。個人塾がこの「まち」の教育インフラの一部としてあり続けるために、ネットワークを強化し、個人塾同士が切磋琢磨して成長し、今治という地域を育てていく環境が必要だと感じました。
流行り廃りの激しい今の時代だからこそ、私たち個人塾協会は各々の場所で、変わらずに塾生の成長を見守り続けていきたい。 「あの塾に行けば、あの先生がいる」 その安心感が、子どもたちの、そしてこの「まち」のささやかな支えになると信じています。
100年先の豊かな今治のために。今日もまた、子どもたちの心に「人」を育む種をまき続けていきたい。そう願っています。

